占いと迷信~そもそも迷信とは何なのか

 筆者は占い師生活の中で、これまで幾度も「占いなんて迷信さ」という言葉を耳にしてきました。占いを愛し、占いを生業としている身からすれば、この言葉はどんなに遠くで発せられてもしっかり聞こえます。実際のところ、この種の言葉は、悪い結果の出た占いを突き飛ばすために発せられる場合も多く、占いと迷信というテーマを深掘りすること自体が野暮であるともいえましょう。しかし、迷信という言葉の定義を掘り下げて考えると、ちょっと面白そうな感じがしたのでブログとしてまとめてみました。

迷信の定義

 迷信という言葉は自然科学の用語ではありませんので、明確に定められた定義は存在しません。しかし、一般には以下の2つを満たすものを迷信と定義することが多いようです。

定義1:合理的な根拠を欠いた言い伝え

 しばしば言い伝えというものには合理的といえるほどの根拠はありません。「カラス鳴きが悪いと人が死ぬ」という言い伝えは日本中どこでも見られるものです。この、カラスの異常な鳴き声というのは、地域によって捉え方が異なり、それぞれの地域で縁起の悪いとされる鳴き声があります。常光徹氏の『うわさと俗信』によれば、全国のそれを集めて検証すると、カラスのどのような鳴き声も、どこかの地域では異常な鳴き声であると判断されているといえるそうです。このような言い伝えは、合理的な根拠を書いているということで、「迷信」の定義の一つとなります。しかし、この条件を満たしているからといって、即座に「迷信」のレッテルを貼られるものではありません。

定義2:社会に害悪をなす俗信

 その言い伝えや俗信が、迷信であるかどうかを判断する上で大切なこととして、それが社会に害をなすかどうかとおいう判断基準があります。これは速水保孝氏が『憑きもの持ち迷信―その歴史的考察 (1956年)』の中で提唱している定義です。速水氏は代々「狐持ち」といわれる差別的迷信によって苦しめられる家庭に生まれた人物です。該当書は弟子の頼みであっても序文など書かない柳田国男氏が序文を寄せ、しかもそこで本文を批判するという大変に珍しい出だしの本です。その本の改訂版において速水氏が最初に述べているのが「わが国に残っていますいろんな俗信のうち、社会生活に害悪を及ぼすものを迷信と申します」という言葉です。

占いは迷信なのか

 では、この定義に照らしたとき、占いは迷信といえるでしょうか。占いには歴史的な理論的背景こそありますが、その占いを信じることを合理的であるとすることは難しいと思います。多くの場合、占いよりも信じるべきものがあるからです。どうひいき目に見ても、迷信の定義1は満たしていると考えるべきでしょう。

 では、占いは社会に害悪をなすものでしょうか。これは最終的には、占いそのものが内包する問題というよりも、その占いの使い手である占い師の考え方によるところがかなり大きいと思います。端的に言えば、占いをお金儲けの道具として悪用するような人物の占いは社会の害悪ですから、これは迷信といえるわけです。依存心を煽る占いも、いたずらに人を不安にする占いも、これら一切が迷信であると定義できるわけです。

 しかし反対に、目の前のお客様を慮り、誠実にその人を善導しようとする限りにおいて、その占いが社会の害悪なはずがありません。実に都合のよい表現ではありますが、この定義に従えば、「人の役に立ち社会の害にならない占い」については迷信ではないということになるのです。

土用の丑には合理性がなくてもウナギは旨い

 土用の丑の日にはウナギを食べるとよいというのは、江戸時代に平賀源内が考案した根拠の薄い俗信であるということは有名な話です。そういう意味では、土用のウナギは迷信の定義1を満たしています。しかし、土用のウナギの根拠が合理的ではなくても、おいしいウナギを食べれば元気がもりもりわいてきます。根拠の有無とそれがもたらすメリットは直接の関係はないのです。

役に立つ側面があるなら根拠なき俗信を非難する必要はない

 実際にその俗信に科学的な根拠があろうとなかろうと、それによって救いがあるならその存在は社会にとって必要なものであるといえます。占いを信じるかどうかは個人の裁量に委ねられるべきことですし、それを愛好することが迷信であると非難されることにこそ、何ら合理性がないことです。占い師の視点からあえて言うなら、占いを信じすぎることは危険であると思います。妄信することを促す占いは前述の理論により迷信であると私は考えます。しかしながら、人を善導する可能性がある占いは、根拠の強弱にかかわらず意味があるのです。

差別につながる俗信は危険

 そうはいっても、占いの理論から発生したいくつかの俗信が、差別につながって社会にとってマイナスになっている例があることも確かです。丙午の話は好例ですが、手相占いにしても星座占いにしても、様々な占いがもたらす小さな差別が存在しているのは確かです。占いの範囲を広げるなら血液型に関するハラスメントである、ブラハラもその例であるといえましょう。

 本来は精密であるはずの占いの表面的な部分だけを簡単に流用して、極めてシンプルに人を判断しようとすることは、差別に直結します。本来の占いは、生年月日や相を緻密に読み解いて人を判断するものです。それを省略した簡便すぎる占いは差別を生み出す種であり、迷信であると言われてもやむを得ないでしょう。

まとめ

 迷信の定義に「社会に害をなす俗信」という条件を付加することによって、役立つ占いは迷信ではないという理論を生み出すことができます。これはある意味ではとても都合のよい表現ではありますが、実用的で意味のある考え方であると思います。

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